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東京地方裁判所 平成3年(ワ)7325号 判決

原告

宮本江都子

朴啓秀

朴聖姫

右三名訴訟代理人弁護士

寺尾正二

神山美智子

被告

山田正三

右訴訟代理人弁護士

真鍋薫

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告宮本江都子に対し金二〇〇〇万円、同朴啓秀及び同朴聖姫に対し各金一〇〇〇万円並びに右各金員に対する昭和五五年一二月一六日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告宮本江都子が、昭和五五年一二月一六日、被告の勤務する国家公務員等共済組合連合会経営の虎の門病院において、医師である被告からセルジンガー法による脳血管撮影を受けた際、これによって脳血管に梗塞を生じ(以下「本件事故」という。)、左片麻痺の障害を被ったため、右脳血管の梗塞は被告の過失行為によるものであるとして、被告に対し損害賠償を求めている事案である。

一原告らの主張

1  原告宮本江都子(以下「原告江都子」という。)は、大正一〇年二月一三日生まれの主婦であり、同朴啓秀(以下「原告啓秀」という。)は原告江都子の夫、同朴聖姫(以下「原告聖姫」という。)は原告江都子と原告啓秀の三女である。

2  被告は、国家公務員等共済組合連合会が経営する虎の門病院(以下「虎の門病院」という。)に勤務する医師である。

3  原告ら三人は、昭和五五年一一月にフランスに旅行したが、原告江都子は、同年一二月二日、シャトー・シュノンソーの階段で転倒して頭部を打ち、同地で入院して診療を受けたが、神経学的に異常はないということで同月六日に退院した。

4  原告江都子は、同年一二月一二日に日本に帰国し、同夜虎の門病院において診察を受け、CTスキャン検査等を受けて入院した。

5  本件事故の発生

被告は、同年一二月一六日、原告江都子に対しセルジンガー法による脳血管撮影(以下「本件脳血管撮影」という。)を実施したが、その際、原告江都子に対し脳血管の梗塞を生じさせるに至った(本件事故)。

6  そのため、原告江都子は左片麻痺の状態に陥り(以下「本件障害」という。)、現在まで半身不随の状態で、当初身体障害等級二級であったものが、その後進行して、平成元年五月二二日には身体障害等級一級に認定されている。

7  本件事故についての被告の責任

(一) 技能の欠如

脳血管撮影は、重篤な後遺症もあり得る危険な検査であるから、その実施にあたっては実績と技術のある医師が慎重に行うべきであり、未熟な医師はこれを差し控えるべき注意義務があった。また、仮に未熟な医師が行う場合には、上司等の立会い指導のもとに行うべきであった。

しかるに、被告は、右各注意義務に違反し、本件事故当時医師免許を取得してわずか三年しかたっておらず、脳外科医としての研修期間中で専門医試験の受験資格も取得しておらず、全く未熟な医師であったにもかかわらず、あえて単独で上司等の立会い指導を受けることなく本件脳血管撮影を実施した。その結果、本件事故を惹起するに至った。

(二) 本件脳血管撮影の不必要性、非緊急性

脳血管撮影は重篤な後遺症もあり得る危険な検査であるから、医師は、その必要性、緊急性がない場合にはこれを差し控えるべき注意義務がある。

しかるに、被告は、当時の原告江都子の症状から脳血管撮影の必要性、緊急性はなかったにもかかわらず、あえて本件脳血管撮影を実施し、本件事故を惹起するに至ったものである。

(三) 全身状態把握の不十分性、脳血管撮影の非妥当性

被告は、本件脳血管撮影を実施するにあたって、被検査者たる原告江都子の内科診療録を精査しあるいは入院病歴所見をきちんととるなどして、原告江都子の全身状態を十分に把握しておくべき注意義務があった。

しかるに、被告は、これを怠り、原告江都子の全身状態を十分に把握することなく本件脳血管撮影を行ったため、原告江都子の血圧が高かったこと、原告江都子に境界型糖尿病、心臓肥大、狭心症の疑いがあることを見落とし、本来セルジンガー法による脳血管撮影を実施することが妥当でない右のような症状をもつ原告江都子に対して、セルジンガー法による本件脳血管撮影を行ったものである。

(四) 転院の遅れ

被告は、本件脳血管撮影後片麻痺を生じた原告江都子を直ちにリハビリテーション専門の虎の門病院分院(以下「分院」という。)に転院させるべき注意義務があった。

しかるに、被告は、原告江都子の片麻痺が造影剤による一過性のものと誤診し、昭和五六年一月一三日まで原告江都子を分院へ転院させなかったため、原告江都子の本件障害は重篤なものとなるに至った。

8  説明義務違反

医師は、その診断または治療のための行為が患者の身体やその機能に影響を及ぼす侵襲にあたる場合、患者に対して、その病状、医師が必要と考える医療行為とその内容、これによって生ずると期待される結果及びこれに付随する危険性、当該医療行為を実施しなかった場合に生ずると見込まれる結果について説明し、その承諾を受けるべき義務がある。

しかるに、被告は、これを怠り、本件脳血管撮影をするにあたり、その内容、これによって生ずると期待される結果及びこれに付随する危険性、本件脳血管撮影を実施しなかった場合に生ずると見込まれる結果について、原告らになんらの説明もせず、また、その承諾も得なかった。

9  損害

原告らは少なくとも左記の損害を被っている。

(一) 原告江都子

合計六九二九万一九六五円

(1) 治療費

二五七八万七九六五円

(2) 逸失利益(一〇年分)

一八五〇万四〇〇〇円

(3) 慰謝料(入院、一〇年間の通院、後遺症)

二五〇〇万〇〇〇〇円

(二) 原告啓秀

合計三〇九五万〇〇〇〇円

原告啓秀は、原告江都子に入院をすすめた責任を感じ、妻である原告江都子の看護に専念してきた。

(1) 介護費(一〇年分)

一〇九五万〇〇〇〇円

(2) 慰謝料

二〇〇〇万〇〇〇〇円

(三) 原告聖姫

合計三〇九五万〇〇〇〇円

原告聖姫は、母である原告江都子をフランス旅行に連れていったために母を半身不随にしてしまったと責任を感じ、結婚もせずに、仕事をしながら半身不随の母の面倒をみている。

(1) 介護費

一〇九五万〇〇〇〇円

(2) 慰謝料

二〇〇〇万〇〇〇〇円

10  よって原告らは、本訴において、右各損害の内、原告江都子において二〇〇〇万円を、原告啓秀及び同聖姫において各一〇〇〇万円を請求し、かつ、これらに対する不法行為の日である昭和五五年一二月一六日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二被告の主張

1  被告には原告ら主張のような注意義務違反はない。

2  本件事故については、原告江都子が原告となり国家公務員等共済組合連合会が被告となった損害賠償請求訴訟が既に昭和五七年に提起されており、平成元年に原告江都子の敗訴が確定しているのである(当庁昭和五七年(ワ)第一二一六五号、東京高等裁判所平成元年(ネ)第一五二二号。)。本訴訟は、単に被告を担当医師に変えたに過ぎないむしかえし訴訟である。

第三当裁判所の判断

一本件臨床経過

証拠(〈書証番号略〉)によれば、以下の事実が認められる。

1(一)  原告江都子は、原告啓秀及び同聖姫とフランス旅行中の昭和五五年一二月二日、ロアール地方の古城において階段を昇っていたところ、五、六段目から転落して頭を打ち、意識を失って救急車で病院へ運ばれ、同月六日まで同病院に入院した。

(二)  原告啓秀及び同聖姫は、帰国までの間、原告江都子の様子がなにかおかしいと感じ、原告江都子に傾眠傾向があり、生来心配症であった原告江都子が楽観的となり、時々冗談を言うなど、変化を来たしたことを観察した。

2  原告江都子は、同年一二月一二日、日本に帰国し、すぐに慶応大学医学部附属病院に赴いたが、診察を受けられなかったため、虎の門病院に行き、同日午後一〇時ころ小林和生医師の診察を受けた。小林医師は同夜の同病院の外科の副当直医であり、主当直医は脳外科の専修医の被告であった。

3  小林医師が原告江都子を診察したところ、主訴は、頭痛と左腰から左大腿部にかけての痛みであり、左腰部に皮下出血、左後頭部ないし頭頂部に血腫、左頂部に皮下出血(波動あり)、右眼瞼に皮下出血がみられ、神経学的所見としては、見当識正常、瞳孔不同なし、対光反射迅速、眼球追視可能、自立起立可能、深部腱反射異常なしで、麻痺も特にみられなかった。しかし、一方で、意識が清明でなく、話し方がゆっくりで応答に的確迅速を欠き、つぎ足歩行(片方の踵を他方の足の爪先につけることを交互に行い直線上を歩く歩きかた)が不能であった。

小林医師は頭蓋内に何らかの異常が存するものと疑い、CTスキャン実施の必要性を認め、被告とも相談の上、その単純撮影を行った。その結果は、右側脳室部分に異常所見があり、脳梗塞、脳挫傷、脳腫瘍、脳浮腫などの存在が疑われた。

4  そこで、小林医師及び被告において、更に造影剤使用によるCTスキャンを実施したところ、右側頭部を中心として大きな低吸収域があり、脳正中領域の右から左への軽度の偏位が認められ、占拠性効果をもつ病変が疑われた。また、原告江都子には左錐体路徴候の所見が認められ、脳梗塞、脳腫瘍、脳挫傷が疑われた。

5  被告は、原告啓秀に対し、右診察の結果と検査・治療の必要性を説明して入院を勧め、原告啓秀も原告江都子を入院させることに同意した。

6  被告は、翌同月一三日午前〇時四〇分ころ、原告江都子に対しルンバールタップ(腰椎穿刺による脊髄液検査)を行ったところ、髄液は黄色を呈し、これにより、髄液中に出血があったことが推知された。

7  同月一三日午前、被告は、右のような原告江都子の症状等を脳外科部長の相羽正医師に報告し、同医師の助言、指示を受けて、原告江都子に対し、脳波検査、脳血管撮影及び脳シンチグラフィーを実施する方針を決定した。

8(一)  被告は、同月一三日、原告江都子に対し、頭部及び胸部X線撮影並びに血液の生化学検査を実施し、同月一五日には原告江都子について構語障害の所見を得た。

(二)  看護婦は、原告江都子の入院後、原告江都子の会話がゆっくりとしており、ろれつが回りにくく、左手の握力が右手よりも弱いことを観察した。

(三)  原告啓秀及び同聖姫は、同月一三日、原告江都子の視線が右側に集中しがちであること、一四日には、原告江都子が左手に持っていた茶碗を落としたのにこれに無関心であったことを観察している。

9(一)  同月一五日午後二時半ころ、被告は、原告江都子に対し脳波検査を実施した。その結果は、基本波は徐波の混入した不規則な波形を示し、また、右半球徐波の左右差が認められ、異常脳波と診断された。

(二)  被告は、同日、原告江都子の高次機能状態を知るため、筆記による検査を行ったが、原告江都子は、閉眼で「宮本」を「宮木」と書き誤り、二桁の足し算三題中二題を、二桁の引き算三題中二題を誤算し、立方体の見取図の模写が正確にできないなど、その高次機能に低下を来たしていることが認められた。(〈書証番号略〉)。

10(一)  同月一六日、被告は、森医師とともに、以下のとおり、セルジンガー法による脳血管撮影を実施した(本件脳血管撮影)。その概要は、カテーテルを大腿動脈から挿入し、これを上行させて、原告江都子の左右総頸動脈及び左右内頸動脈に造影剤を注入し、脳血管を撮影するというものであった(椎骨動脈撮影はできなかった。)。

(1) 一三時四五分 局所麻酔施行後(一%オムニカイン一〇ミリリットル)、セルジンガー針で右大腿動脈からカテーテルを挿入し、その位置をX線透視下に確認

(2) 一三時五五分 造影剤(六五%アンギオグラフィン)七ミリリットルを注入(六秒間)

(3) 一四時〇二分 更に七ミリリットルを注入(六秒間)

血圧が最大一七二 最小一三〇

(4) 一四時〇九分 降圧剤アポプロン一Aを注射

(5) 一四時一一分 造影剤一〇ミリリットルを注入(七秒間)

(6) 一四時二〇分 更に七ミリリットルを注入(六秒間)

血圧が最大一九〇 最小一二八

降圧剤アポプロン一Aをカテーテルから注入

(7) 一四時二五分 造影剤一〇ミリリットルを注入(七秒間)

血圧が最大二一〇 最小一三〇

(8) 一四時三〇分 降圧剤アプレゾリン二〇ミリグラムをカテーテルから注入

(9) 一四時三二分 血圧が上昇してなかなか下がらず、動脈硬化が予想以上に強かったため、椎骨動脈撮影をせずに中止、カテーテルを抜去

(10) 一四時三五分 血圧が最大一八八 最小一〇八

(11) 一四時三九分 血圧が最大一五二 最小九四

終了

(二)  被告は、本件脳血管撮影の結果から、原告江都子の右内頸動脈の末端部の狭窄、右前大脳動脈の左への偏位、右中大脳動脈の狭窄等を認め、これらにより、右側頭葉を中心に占拠性の病変がありそれは脳梗塞の可能性が大であると診断した。

11  ところが、原告江都子は、本件脳血管撮影行為により、その脳血管に新たな梗塞を生じ(本件事故)、同日午後三時〇五分に帰室したが、そのころから左上下肢に麻痺が出現し始めた。

12  原告江都子の左片麻痺(本件障害)はその後も回復せず、原告江都子はそのまま虎の門病院で治療を受けて、昭和五六年一月一三日にリハビリのため分院に転院した。

13  原告江都子は、現在、半身不随で車椅子生活を送っており、原告啓秀及び同聖姫がその介護にあたっている。

以上の事実が認められる。

二脳血管撮影

1  脳血管撮影は、脳神経外科領域における補助検査方法であって、造影剤を脳に流入する血管内に注入することにより脳の血管状態をレントゲン撮影するものである。頸動脈穿刺法とセルジンガー法(カテーテル法)とがあり、セルジンガー法では、通常大腿動脈からカテーテルを挿入し、X線透視下に血管内をカテーテルを上行させ、その先端が大動脈弓に達したところで更にカテーテルの先端を目的とする頸動脈あるいは椎骨動脈内に挿入し、そして造影剤を注入することにより、脳に流入する四本の主要な血管を一挙に撮影しあるいは個別に撮影するものである。大腿動脈を穿刺して同所からカテーテルを挿入する方法のほかに、上腕動脈、腋窩動脈、鎖骨下動脈を穿刺してカテーテルを挿入する方法もある。セルジンガー法は、CTスキャンによる診断法の進んだ近時においてもなお用いられている方法である。(〈書証番号略〉)

2(一)  頸動脈穿刺法では、頸動脈穿刺部位に血腫を作った場合、それが脳血管塞栓の原因となり得るが、セルジンガー法では、大腿動脈穿刺部位に血腫を作っても脳血管塞栓の原因とはなり得ない。もっとも、セルジンガー法によっても、カテーテルの先端が頸動脈・椎骨動脈内を移動する際にその内壁を擦過し、狭窄したアテローム硬化性プラークを傷つけ、いわゆるコレステリン塞栓を飛ばして、末梢側の血管に梗塞を生じさせる可能性は存する。

(二)  脳血管撮影による合併症の発生頻度は、報告者によってまちまちであるが、脳及び頸部の主幹動脈の閉塞性あるいは狭窄性疾患においては恒常的な合併症の発生頻度は高く、昭和三九年のTaverasとWoodの報告による3.3パーセントに半身麻痺が起こったと報告されている(〈書証番号略〉)。しかし、昭和五二年にOlivecronaが報告したところによると、興奮、眠気、混乱、めまい、発作、麻痺、昏睡等を含む神経学的な合併症の発生割合は、対象となった三七三〇人中一六八人(4.6パーセント)で、失語症を伴い又は伴わない進行性の麻痺を生じた割合は一四人(0.4パーセント)、神経的な欠損が永久的であった例は六人(0.2パーセント)、死亡者は一人(0.03パーセント)であったと報告されている(〈書証番号略〉)。

また、別の報告では、麻痺を伴う神経学的合併症の発生率は、0.2ないし2.4パーセントの間に分布し、永久的神経後遺症を伴うものは0.7パーセントである(〈書証番号略〉)、あるいは、重篤なショック状態に陥るような副作用は極めてまれで、発生頻度は0.02パーセントないし0.35パーセントである(〈書証番号略〉)、と報告されている。

(三)  以上によれば、脳血管撮影はその合併症として重篤な永久的麻痺が発生することもあり得るが、その発生率は極めて低いということができる。

三本件事故(脳血管の梗塞)の原因

1  本件事故(脳血管の梗塞)が本件脳血管撮影によって生じたものであることは当事者間に争いがない。

2  下條貞友医師は、原告江都子の片麻痺の原因について、「既に本件脳血管撮影前に存在した梗塞部ないしその隣接領域に、本件脳血管撮影によって生じた新たな小梗塞に基づくものである。」としている。(〈書証番号略〉)

そして、下條貞友医師は、右小梗塞が生じた原因について、「次の①が単独で生じたものか、②ないし④が複合して生じたものか、いずかである。」としている。(〈書証番号略〉)

① 本件脳血管撮影施行中、カテーテルの先端が内頸動脈内壁を擦過し、狭窄したアテローム硬化性プラークを傷つけ、いわゆるコレステリン塞栓を飛ばしたこと。

② 本件脳血管撮影中、急激な血圧上昇により血管攣縮を来たし、梗塞巣周辺の低灌流域(いわゆるペナンブラ、正常に復す可能性を保持する脳組織領域)を遂に非可逆性壊死に至らしめたこと。

③ 急激な血圧上昇から低下へと動揺する血圧変動に対し、既に狭窄が存在していた梗塞巣付近の血管の生理的対応(血圧の低下に血管を拡張して血流を増やす自動調節能)が不能で、血圧依存性に血流が低下したこと、

④ 造影剤による赤血球の連珠状凝集(アグレゲーション)を生じ、血管内を流れる血液粘度及び赤血球変形能の低下を来たした結果、梗塞巣周辺に微小循環の障害が招来されたこと。

四そこで、本件事故発生についての被告の責任について検討する。

1  被告の技能について

(一) 原告らは、「被告は、本件事故当時医師免許を取得してわずか三年しかたっておらず、脳外科医として研修期間中で専門医試験の受験資格も取得しておらず、未熟な医師であったにもかかわらず、あえて単独で上司等の立会い指導を受けることなく、本件脳血管撮影を実施したものである。」旨主張する。

(二) たしかに、本件事故当時、被告は医師免許を取得して約三年六カ月しかたっておらず、虎の門病院において脳外科の専門医となるための研修期間中であったことが認められるけれども、しかしながら、被告は、本件脳血管撮影前にも、虎の門病院の脳外科部長相羽医師の指導を受けて、脳血管撮影を年間五〇例ないし六〇例、総計二〇〇例ないし三〇〇例行っており、脳血管撮影については相当の経験を有していたものと認められ、本件脳血管撮影までに麻痺等の事故を起こしたことはないというのである。(〈書証番号略〉)

右事実によれば、被告が脳血管撮影について未熟な医師でありその技能が欠如していたものとはいえないというべきであり、現に、下條貞友医師も、被告の本件脳血管撮影には技術上の問題はなかった旨の意見を述べているところである(〈書証番号略〉)。原告らの右主張は採用することができない。

2  本件脳血管撮影の必要性、緊急性について

(一) 原告らは、「被告は、原告江都子の症状から脳血管撮影の必要性、緊急性がなかったにもかかわらず、あえて本件脳血管撮影を実施したものである。」旨主張する。

(二) しかし、前記一認定のとおり、①原告江都子は、フランス旅行中に古城の階段から転落して頭を打ち、意識を失って救急車で病院へ運ばれ、入院したものであること、②小林医師の診察の結果、原告江都子の意識が清明でなく、話し方がゆっくりとしていて応答に的確迅速を欠き、つぎ足歩行が不能であったこと、③CTスキャン検査によって、右側頭部を中心として大きな低吸収域があり、脳正中領域の右から左への軽度の偏位が認められ、占拠性効果をもつ病変が疑われ、左錐体路徴候の所見を得たこと、④脊髄液検査によって髄液の中に出血があったことが推知されたこと、これらによれば、原告江都子には脳梗塞、脳腫瘍、脳挫傷が疑われるのであり、いずれであるかによって今後の治療方法も大きく異なってくるのであるから、そのためにも早急に鑑別診断を行う必要があり、その一つとして脳血管撮影を行うことはまことに必要でありかつ緊急を要したものというべきである。下條貞友医師も、本件脳血管撮影の必要性、緊急性を肯定しているところである(〈書証番号略〉)。原告らのこの点に関する主張も採用することができない。

3  全身状態把握の十分性、脳血管撮影の妥当性について

(一) 原告らは、「被告は、原告江都子の全身状態を十分に把握しないまま本件脳血管撮影を行った。そのため、被告は、原告江都子の血圧が高いこと、原告江都子に境界型糖尿病、心臓肥大、狭心症の疑いがあることを看過し、本来セルジンガー法による脳血管撮影を実施することが妥当でない右のような症状をもつ原告江都子に対して、セルジンガー法による本件脳血管撮影を行ったものである。」旨主張する。

(二) たしかに、原告江都子は、昭和五一年九月一一日から高血圧の治療のために虎の門病院内科へ通院していたことが認められ、その外来診療録(〈書証番号略〉)には、昭和五一年九月二七日の欄に、「昭和三四年頃より小出医師にかかっている。高血圧(最大二〇〇/一〇〇)で。降圧剤にてコントロール、現在一六〇/八〇位」との記載があり、同年一〇月一四日の欄には、糖負荷試験の結果として「境界型」との、昭和五三年一一月一六日の欄には「左室肥大」との、昭和五四年八月二九日の欄には「心肥大」「阻血性ST―T変化」との各記載がある(昭和五四年九月四日以降同五五年一一月一八日までの経過記載は、主に血圧と脈拍数に関するものである。)。しかし、「糖尿病」、「狭心症」の記載は見られない。

ところで、原告江都子の入院診療録(〈書証番号略〉)の現病歴欄には「昭和五一年より高血圧(+)。当院内科でずっと投薬うけている。旅行中は規則的に服用できなかったようだ。(高血圧そのものは二〇年前から)」との記載があり、また、昭和五五年一二月一三日の欄には、問題点の一つとして「高血圧 二〇年以上の既往」との記載があって、これらの記載は、右外来診療録(〈書証番号略〉)の記載とほぼ一致しているのである。これによれば、被告は、本件脳血管撮影前に十分に原告江都子の全身状態を把握しており、原告江都子の血圧が高いことしたがって原告江都子に動脈硬化があり得ること等を十分に知って本件脳血管撮影を実施したものと認めるのが相当である。被告が原告江都子の全身状態を把握していなかったとの原告らの主張は採用することができない。

原告らは、右入院診療録の現病歴欄の記載は、相羽医師によって原告江都子が分院を退院後に書き加えられたものであると主張するが、右記載は、原告江都子が入院後病棟に移ったときに小林医師によって書かれたものである。(〈書証番号略〉)

(三) 次に、原告らは、高血圧で動脈硬化の強い原告江都子に対して本件脳血管撮影を実施することは妥当ではなかった旨主張する。

たしかに、高血圧で動脈硬化の強い患者に対する脳血管撮影は、血管内壁を損傷することが全くないとはいえず、また、内壁に存在するアテローム性プラークから塞栓を剥離させることもあるので、細心の注意を払って実施することが必要ではある。

しかし、一般的に高血圧や動脈硬化のある患者に対して脳血管撮影をしてはならない医学上の定説があるものとは認められず、むしろ、脳血管撮影を必要とする場合の多くは高血圧や動脈硬化をもとにして脳に病変がある患者に対してであって、非常に高度の心不全や腎肝不全があって危篤寸前であるとか危篤状態であるといった場合は別として、一般的には高血圧や動脈硬化の強い患者に対しても脳血管撮影を行い得るものとされていることが認められ、実際にも最大血圧二〇〇を超えるような患者に対しても脳血管撮影が実施されているのである。(〈書証番号略〉)

そして、原告江都子には、前記のとおり心肥大の所見はあったが、高度の心不全や腎肝不全はなく、その他、本件全証拠を仔細に検討しても原告江都子に本件脳血管撮影を実施することが妥当でないとの結論を導くに足る証拠はないのであるから、本件脳血管撮影の妥当性も肯定でき、この点に関する原告らの主張も採用することができない。

(四) なお、下條貞友医師は、前記のとおり、原告江都子の片麻痺の原因について、「既に本件脳血管撮影前に存在した梗塞部ないしその隣接領域に、本件脳血管撮影によって生じた新たな小梗塞に基づくものである。」とした上、それを本件脳血管撮影前に被告において予測するのは不可能であったとしている。(〈書証番号略〉)

4  転院について

(一) 原告らは、「被告は、本件脳血管撮影後片麻痺を生じた原告江都子を直ちにリハビリテーション専門の分院に転院させるべき注意義務があったのに、原告江都子の片麻痺が造影剤による一過性のものと誤診したため、昭和五六年一月一三日まで原告江都子を分院へ転院させなかった。」旨主張する。

(二)  医師にとって患者の疾患が自己の専門外の診療科目に属するためその患者を診療する能力がないか不十分である場合、あるいは診療する人的・物的設備が不十分である場合、その患者の疾患に対してより適切な治療方法が存在し、その治療方法がその時点での医療水準に照らし臨床医学上の知見として一般化しており、適切な転医先が運搬可能な範囲に存在し、受入先が患者の受入れを受諾しており、患者が転医可能な状況にあるならば、当該医師は、患者を当該医療行為を行い得る他の医療機関へ転医させるべき義務がある。しかし、医師には当該転医を行わしめるべきか否かを判断するために経過観察をすることが許されるべきであり、その範囲は、臨床医の実践的な医療水準を前提として当該疾病によって発症する結果の重篤性の有無・程度、当該診療方法の確立の程度、当該医療機関の右疾病に対する人的・物的態勢の程度等を相関的に考慮することによって判断されるべきである。

これを本件についてみるに、本件全証拠を検討しても、被告が本件事故後昭和五六年一月一三日までの約一か月間原告江都子をその経過観察、検査等のために虎の門病院に入院させた措置になんら不当の点は認められない。原告らの主張は採用することができない。なお、原告らは、被告が原告江都子の片麻痺を造影剤による一過性のものと誤診したと主張するが、入院診療録(〈書証番号略〉)の昭和五五年一二月一八日の欄には家族への説明の内容として、「麻痺は多分永続的の可能性大」との記載があるのであって、被告が原告江都子の片麻痺を一過性のものと誤診していたものとは認められない。

五被告の説明義務違反について

1 一般に、医師の医療行為が医学的侵襲にあたり、それが一定の蓋然性をもって患者の生命、身体、機能等に重大な結果を与える場合には、その患者は当該医療行為を受けるか否かを含めて自己の生命、身体、機能をどのように維持するかについて自ら決定する権能を有するのであるから、医師は、原則として、患者の病状とその程度、医師が必要と考える医療行為とその内容、これによって生ずると期待される効果、これに付随する危険性、当該医療行為をしなかった場合に生ずると予想される結果について説明し、承諾を受ける義務があるものと解され、患者の承諾を受けずになした医療的侵襲行為については、その重大な結果が発生すると否とにかかわらず、私法上違法の評価を免れないものというべきである。

もっとも、説明の範囲・程度は具体的事情によって異なるものであり、侵襲行為の程度が小さい場合、重大な結果発生の可能性が低い場合、緊急事態で説明をしたり承諾を求めたりする余裕がない場合等には、説明を省略し又は可能な限度で説明をすることも許されるものというべきであり、また、説明によって患者に治療上の悪影響を及ぼす場合や患者に説明を理解する能力が十分でない場合等には、患者本人ではなくて患者の家族等適切な者に説明をし、その承諾を得ることで足りるものというべきである。

2 ところで、被告は、本件脳血管撮影の日の前日である昭和五五年一二月一五日の昼前に、原告江都子の三女である原告聖姫に対し、原告江都子の経過を簡略に説明するとともに、脳梗塞、脳腫瘍等が考えられるので脳波検査とともに脳血管撮影をする必要があること、脳血管撮影をすると麻痺を生じることもあるが、それはほとんど一過性であり、永続的麻痺が生じる可能性は飛行機事故に遭う程度のものであることを説明し、本件脳血管撮影についての原告聖姫の承諾を得ていることが認められる。(〈書証番号略〉)

〈書証番号略〉中右認定に反する部分はにわかに措信し難く、他に右認定を覆すに足る証拠はない(〈書証番号略〉に原告聖姫の承諾に関する記載がないことをもって右認定を覆すのは困難である。)。

3  そして、本件脳血管撮影はカテーテルを大腿動脈から血管内に挿入するものであり、侵襲の程度はさして大きいものとはいえないこと、脳血管撮影は前記二で述べたとおり重篤な結果の発生する頻度が極めて低いものであること、昭和五五年一二月一五日当時原告江都子は前記認定のとおり二桁の足し算三題中二題を誤算するなど必ずしもその精神的機能が十分ではなかったこと等に徴すると、被告が本件脳血管撮影について前示のような簡略な説明ですまし、かつ、それを原告江都子ではなく原告聖姫にしたとしても、本件事故時である昭和五五年当時においては、それをもって足りるものというべきである。この点に関する原告らの主張も採用することができない。

原告啓秀は、原告江都子の夫である自己に対して説明をすべきであったというが、本件事故当時原告聖姫は三一才で原告江都子及び原告啓秀と同居しており、原告啓秀とともに原告江都子の付添看護にあたっていたのであり、原告啓秀に対していつでも容易に説明の内容を伝達できたのであるから、原告聖姫が右説明の相手方として不適切な者であったということはできない。

六結論

以上のとおりで、原告らの主張する注意義務違反及び説明義務違反はいずれもこれを被告に認めることができないから、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく失当として棄却を免れない。よって、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官原田敏章 裁判官内田計一 裁判官林俊之)

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